地裁決定が「忘れられる権利」に言及した理由の考察

2016.01.02

1.疑問の所在

 従来,インターネット情報の削除請求権は,人格権に基く妨害排除請求権としての削除請求権(差止請求権)だと整理されており,あえて,EUデータ保護規則案17条やEU司法裁判所(2014/5/13)が示した「忘れられる権利」という概念を導入する必要はないと考えられていた。
 しかし,さいたま地裁平成27年12月22日決定(判例時報2282号78頁)は,おそらく本邦で初めて「忘れられる権利」という表現を使い,申立人(債権者)のGoogleに対する削除仮処分決定を認可した。この概念を使わねばならなかった理由は何なのか。

2.仮処分決定

 さいたま地裁平成27年6月25日決定は,「債権者は,人格権(更生を妨げられない権利)の侵害を理由として,上記検索結果の削除請求権を有すると主張し,民事保全法23条2項の仮の地位を定める仮処分命令として,主文同旨の決定を求めた」と判示し,債権者の主張を「更生を妨げられない権利」の侵害を理由とする削除請求権だと整理していた。

3.保全異議事件における認可決定

 これに対し,上記仮処分決定に対する保全異議事件の認可決定(さいたま地裁平成27年12月22日決定)では,「一度は逮捕歴を報道され社会に知られてしまった犯罪者といえども,人格権として私生活を尊重されるべき権利を有し,更生を妨げられない利益を有するのであるから,犯罪の性質にもよるが,ある程度の期間が経過した後は過去の犯罪を社会から「忘れられる権利」を有するというべきである。」として,「更生を妨げられない利益」と表現し直すとともに,「忘れられる権利」という概念を導入した。

4.最高裁判例

 最高裁は,「ある者が刑事事件につき被疑者とされ,さらには被告人として公訴を提起されて判決を受け,とりわけ有罪判決を受け,服役したという事実は,その者の名誉あるいは信用に直接にかかわる事項であるから,その者は,みだりに右の前科等にかかわる事実を公表されないことにつき,法的保護に値する利益を有する」「その者は,前科等にかかわる事実の公表によって,新しく形成している社会生活の平穏を害されその更生を妨げられない利益を有する」として,「更生を妨げられない利益」という表現を使っている(最判平成6年2月8日,ノンフィクション逆転事件・民集48巻2号149頁)。

5.さいたま地裁が「忘れられる権利」概念を導入した理由の考察

 最高裁が「更生を妨げられない利益」と表現し,仮処分の債権者(申立人側)でも同様の申立をしていたにもかかわらず,さいたま地裁は仮処分決定では「更生を妨げられない権利」だと表現し,「利益」を「権利」に昇格させたうえで仮処分決定を発令した。「更生を妨げられない権利」という表現は,上記最高裁では使われていない。
 さいたま地裁が「権利」だと書いたのは,削除請求権(差止請求権)の根拠が「人格権に基づく妨害排除請求権」だからだと考えられる。すなわち,人格権に基づく差止請求権について最高裁は「人格権としての名誉権に基づき,加害者に対し,現に行われている侵害行為を排除し,又は将来生ずべき侵害を予防するため,侵害行為の差止めを求めることができるものと解するのが相当である。けだし,名誉は生命,身体とともに極めて重大な保護法益であり,人格権としての名誉権は,物権の場合と同様に排他性を有する権利というべきであるからである」(北方ジャーナル事件上告審・民集40巻4号872頁)等としており,物権にさえ妨害排除請求権があるのだから,人格権にも妨害排除請求権があるのは当然,との法的理論を示してきている。
 そうだとすると,差止請求権(ネットにおける削除請求権)があるとの結論に至るには,「法的利益」では足りず,「権利」でなければならないのだと,さいたま地裁は考えたのだと思われ,そのため仮処分決定では,「更生を妨げられない権利」と整理されたのだと想像される(なお,東京高裁昭和45年4月13日判決「映画「エロス+虐殺」事件」は,「人格的利益を侵害された被害者は、また、加害者に対して、現に行なわれている侵害行為の排除を求め、或は将来生ずべき侵害の予防を求める請求権を有するものというべきである。」とし,「人格的利益」でも妨害排除請求権を認めている)。
 しかし,やはり「更生を妨げられない権利」では何らかの違和感があったのだろう。最高裁が示す「更生を妨げられない利益」に表現を戻したうえで,差止請求の根拠たりうる権利として,さいたま地裁は「忘れられる権利」の概念を導入したのだと考えられる。

6.「忘れられる権利」の概念は必要となるか

 上記の想像のとおりなら,「忘れられる権利」という概念の導入は,差止請求権の根拠となる人格権の一内容として必要だという結論になる。なぜなら,単なる「更生を妨げられない利益」の侵害では,損害賠償請求は可能でも,差止請求まではできないのではないか,との疑問が伴うためである。社会から忘れられるためには,損害賠償請求では目的を達成できず,差止請求こそが必要となるのであって,この結論を見据えると,何らかの権利であるとの構成が求められる。
 ただ,「忘れられる権利」という権利を真正面から示すには,まだ議論が不十分ではないかという印象もある。権利の外延も内包も不明瞭であり,この表現を採用するにしても,更生を妨げられない利益がインターネットを媒介として権利に昇華したものが忘れられる権利の一内容だと考えねば,最高裁判例と整合しないように思われる。